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ローリン・ダイニング!!

Rowlin’Dining! すべての作品は、新作の材料だ!
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ぽてモン奮戦記 10

 8月は入った途端に、2週間ほどの休みがある。いわゆるお盆休みだ。
 だが、わたしは教室を開け、黙々と教え子たちの勉強を見ていた。
 ぼーんちょは家族旅行のため、5日しか顔を出さなかったものの、中1生の問題集の半分を終えることに成功した。be動詞の活用に関するものがすべて終わった。
 尚、中1英語で残る最重要単元群は、一般動詞の活用と名詞の活用(所有格や目的格、複数形など)で、依然としてかなりの未着手に思われるが、着手した単元の完成度は、3周以上のクオリティである。着手箇所はスラスラいくようになった。
 7月を惚けてしまったことに反省を促す説教で、ぼーんちょの気力をまた回復させたのである。次の定期試験は、9月の2学期中間試験であった。
 こうして、8月下旬に、ぼーんちょの英例文を見る目に変化が起きた。
 1文を構成する単語を、主語、述語動詞、目的語の品詞で分けて見ることができるようになったのだ。
 その後、テスト1か月前ということで、学校指定のワークブックの試験範囲を予想して(試験までにどこまで単元が進むかの目星をつけて)、予習を含めて練習した。
 結局、9月中旬には6周以上、ワークブックのテスト範囲を終えることが出来たのだ。
 前回よりも盤石と言える用意ができたため、目標点を70点と定めても、自信を持って試験に臨めた。
            ◇
 ところが――。
 英語、46点。
 数学、59点。
 2学期中間試験の結果は、散々なものだったのだ。
          ◇◇◇
 今年もこの仕事は、あまり善くない年だった。
 結果は、驚くべきものがいくつか出た。素人の工夫でも、プロフェッショナルを稀に驚かせることもできるらしい。
 ただ、それでもよろしくないのは、「先生を変えてくれ」のクレームが3回あったことだ。
 とはいえ、いずれも家庭や個人に問題があっただけだ。相手に非があることを、解り切っている。
 ゆえに気に病むこともないようにも思えるのだが、そういうわけでもない。
「親のデキがよろしくないんだ」
 この仕事を通してわかったのは、親の教養とか思慮の深さが、子供の出来不出来に、実に大きく影響することだ。子供本人の実力なんか、その局面での最後の最後しか必要でなく、むしろ実力なんか低くても親のデキがよろしければ、人並み以上のクオリティになれるってことである。
 だから、面白くない。不愉快である。
            ◇
 結局、子供が育つ環境を整えるものの割合は、その親がほとんどを占める。
 一昔前のように、近所の子供についてご近所の方々が何かしら手伝うこともないし、学校のセンセイだって“先生”という感じがしない。文字通りの教員に過ぎないものになっている感があるように見える。寺子屋の時代まで遡れというわけではないけれども、自分とは直接無関係の子供について気にかける大人が、少ない気がしてならないのだ。駅や車内でマナーの悪い子供に、正確に注意する大人をまず見かけることが無い。
 だからなのか、その親個人の性質が以前の時代のそれよりも強く反映された環境の中で、その子供たちは生きる。
 その親に「相手を1人の人間として冷静に会話が出来る」、「親の言うことが常に正しいとは限らないと教えることができる」など、聡明さが或る程度あれば、問題は無いのかもしれない。
            ◇
 偏差値50というものは、普通の人だ。平均である。多数派ですらある。
 だが、比べる対象の中には、偏差値70など圧倒的にデキる方々がいて、こういう方々が平均点を底上げしていることを見れば、偏差値50の得点者など実は「何にもできない」と言って過言にならないのかもしれない。
 勉強の知識を代弁する名詞のような「偏差値」だが、わたしはこの単語を、「その個体の知識定着度」に限った意味合いで遣っているわけではない。個性や個体差があるから、やっぱり目前の個人を偏見無くキチンと見なければならないのだが、この偏差値というものは基準として非常に使い易いのだ。相手のステイタスを推し量る上では、意外なほど重宝する。偏差値とその人物のランクは合致していると思える機会は、思いの外多いのだ。経済状況にしても、一族の水準にしても、それを参考にした予想がニアピンないし当たりであることが多いのだ。
            ◇
 「偏差値50」とは、かなり誤った見方でまかり通ってきている人々で、それが世間の多数派になっているのではないかということも、想像できないことではないのである。
 そうでなければ、「子供を教育することを思ったら、してはならないこと」ということが解らない親は、こんなに多くはならないハズである。極端な話、中学男子なんか到底理解できるものではないことを知らないような母親だって普通に存在している。
            ◇
 「普通」の人は、深いトコロで理解が無い――。
 結果についてちゃんと見定めて行動できている大人が意外なほど少ない現実が、その証拠ではなかろうか。
 そんな大人が、子供をつくる。
 そんな親に似た子供が生まれるわけだし、そうでなくても親の考え方の下で育てば、結局親と同じかそれ以下のレヴェルとなるのは、自然である。逆に、立派な方の子供であれば、子供も才能に恵まれていなくても、人並みかそれ以上にはなれるのである。
            ◇
 角田光代先生は、
「自分の境遇を親のせいにするな」
という感じのことを、その著作物の中で述べていたことがあった。『キッドナップ・ツアー』の一節だったかと思う。
 受験問題の長文で見ただけだから、結局、どんな主張だったのか全貌を知らないのだが。
 もっともな気もする。
 だが、それだって程度による。境遇による。そういう主張を自然に出来る人物がいたとしても、そいつが必ずしも大人物だとは思わない。大人物の場合もあるけれども、努力もせずにぐうたらで諦観に甘んじたつまらない大人の見栄張りである場合も、充分にある。「それが世間だ」とわかるようなわからんようなことを言って、割り切らせようとする大人はいるが、そいつは「なぜ世間がそんな理不尽になったのか」を常に考え続けているのだろうか。自分の考えを言葉にしてお喋りにすることが、常にできるのだろうか。
            ◇
 わかるようなわからんような、真理めいた定型句に、「世の中は競争だ」というものがある。
 ぐうたらで勉強をしない子供を叱るときに、その親が言いそうな言葉だ。
 どんな競争なのか。単純な成績の勝負なのか。資源の争奪戦のことを指しているのか。
 そんなセリフを使う親のうち、その“競争”について、キチンと語れる親はどれくらいいるのか知らないけれども、少なくともわたしは、この仕事を通して、“世の中の競争”というものがなんなのか、少しだけ解った。
            ◇
 だからこそ、不愉快なのである。善くない年だったと、言ってしまうのである。
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